この地域は古代大和政権の時代から、稲作の適地として開拓が進められ、江戸時代(1672年)の記録に滝名川掛りの27堰による水田面積は、約822haに及ぶと残されている。
しかしながら、水田面積に比べ水源の流域面積が小さく降雨量も少ないことから、深刻な水不足の常襲地帯であり、水争いが頻繁に起こった。
「滝名川」は志和稲荷神社前で本流方と支流方の二つの水系に分岐されていたが、ひとたび干ばつに見舞われればこの水系同士の間で悲惨な水争いが起こり、「志和の水論」、「滝名川の水げんか」と呼ばれ記録に残されているだけでも36回を数え、時には死者が出るほど激しいものであった。
志和稲荷神社に、耳が欠けた狐の前立てが残っているがこれは当時の水争いの物凄さを現在に伝えている。
これは「葛丸川」においても同様で、用水配分が守られず15回の水論があったと言われている。
明治末期において、毎年のように記録的な干ばつ・凶作に見舞われ、そのことが地区関係者の心をダム構築運動へと燃え上がらせることとなった。
大正15年には当時の志和村が中心となり、地域ぐるみの協力によってダム建設の陳情運動が開始され、昭和4年計画が具体化したが、度重なる政変により念願の事業着手までには至らなかった。
昭和18年に山王海ダム建設の推進母体となった「山王海普通水利組合」(現山王海土地改良区の核組織)が設立され紆余曲折を繰り返し、昭和19年に遂に山王海ダム築造の事業計画が具体化され、翌昭和20年に旧山王海ダム築造事業が営団事業として着手され、後に国営事業に切り替わり、昭和27年当時としては東洋一のアースダムとして完成を迎えた。
堤体には時の国分岩手県知事が「永遠に水争いがなく、平穏であれ」という気持ちを祈念し「平安・山王海・1952」の文字を植栽した。
その後、近代的農業の展開により、農業機械の大型化や湿田の乾田化、汎用化が進み、昭和31年度より、積寒法による団体営区画整理事業に着手し、5a区画に整備され、時代の流れと共に再区画の気運が高まり、昭和50年度から農村基盤総合整備パイロット事業が着工、県営ほ場整備事業も各地で実施され、30a区画の整備が進んだ。
平成2年には、低コストプラス21世紀型の事業を岩手県で始めて実施し、その後も担い手育成基盤整備事業の導入により1ha区画の田区が造成され、管内における30a以上の整備率は9割を超えている。
国営山王海農業水利事業は、時の開田政策、ほ場整備事業による乾田化による用水不足解消のため、昭和54年度より着工し、葛丸ダムの新設、旧山王海ダムの嵩上げ、両ダムを結ぶ取水・導水トンネル、頭首工、幹線用水路の整備を事業内容として進められ、平成2年に事業の計画変更がなされ、一期と二期に分離し、一期事業分の葛丸ダム及び4頭首工、幹線水路、導水トンネルが平成4年3月に完了し、全国でも珍しい親子ダムが完成した。
水争いで苦しんだ古人の労を顧み、この地域の永久の発展の願いを込め旧山王海ダムに植栽された「平安」の文字が新山王海ダムの堤体に引き継がれている。